「芸術は爆発だ」でお茶の間をにぎわせた岡本太郎(1911~1996)。
大阪万博では、天井をつきやぶった「太陽の塔」。
そして井の頭線、渋谷駅改札口近くに爆発の大壁画『明日の神話』。
そんな芸術家・岡本は、パリ大学で民俗学を専攻していた。
1959年11月に沖縄を訪れた岡本は、翌年「中央公論」に『沖縄文化論』を連載している。
『明日の神話』
岡本は、人間の純粋な生き方というものがどんなに神秘であるか、その手ごたえを伝えたかったという。
そのヒントとなり、著者も引用している柳田国男の「山の人生」の一節を紹介したい。
「女房はとっくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ年位の小娘をもらってきて、山の炭焼小屋でいっしょに育てていた。なんとしても炭は売れず、なんど里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手でもどってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へはいって昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという。二人の子どもがその日当たりのところにしゃがんで、しきりになにかしているので、傍へいって見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。阿爺(おとう)これでわたしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それでじぶんは死ぬことができなくてやがて捕えられて牢に入れられた。この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまたわからなくなってしまった」
現代生活はカレンダーによって画一化され、コマ切れにされた時間とその連続。
自然に対する畏怖と歓喜をうしなった無感動の空間。
岡本は、そんな現代日本を、のんびりした沖縄時間や自然に癒される沖縄から、根本的な人間の生き方をながめかえす、鏡にしようとしている。
沖縄には透明な光をそそぐ陽、その輝きを吸いこんだ青い山、そして傷口のようにむきだした赤い土肌。
海は濃紺の沖あいからなめらかなエメラルドが島にせまり、そして白く泡だつ波頭。
そんな沖縄に、岡本は何もないという。
沖縄だけにしかないというような、凄みのものがないという。
首里の霊御殿(たまうどん[墓])、浦添にある英祖王の石棺、染物の紅型(びんかた)そして焼き物など古典美術からすべてひっくるめて、ただ、いいものであるにすぎないと。
文化とはその土地、自然環境で育ったものなのだ
(日本は、沖縄以上に輸入文化。明治以降、和魂洋才)
沖縄本島は戦争、八重山諸島は津波や人頭税*で何もかもなくなった。
人頭税* : 15~50歳の男女は一律の頭割りで48種類の物納税が課せられる
あるものは歌や踊りであって、形のあるものは何もない。
八重山諸島は、文字の表現さえ禁止されていた。
岡本は、琉球舞踊を絶賛している。
沖縄に興味をいだいたのは、踊りを観てからだという。
例えば古典舞踊については、心にしみいるようなやさしさ、なめらかさにかかわらず、不思議に激しく、鋭い、まっすぐに正対して、構え、迫ってくる、挑むような感じがあるという。
他に雑踊り(ぞうおどり)という庶民的舞踊がある。
岡本が沖縄にきて最も感動したものが、何の実体も持っていない御嶽(うたき)だったという。
神の降りる聖所である。
礼拝所も建っていなければ神体も偶像も何もない。
神の島、久高島の御嶽は、特に何もないという。
あるのは自然木と自然石だけで、それが神と人間の交流回路だと。
久高島(沖縄本島東南、知念岬から東海5.3km、周囲8.0kmの細長い島)は、神秘的儀式 「イザイホー*」が1978年まで続いていた。
イザイホー* : 12年に1回、牛の年ごとに行われる神事。久高島で生まれ育った30〜41歳までの既婚女性が、この祭りによって神に使える巫女(みこ)となり、現人神(うつつがみ)になる
葬儀は風葬(遺体を空気にさらし自然にかえす葬法)で1960年代まで行われている。
浄(きよらかなこと)、不浄の信仰があるようだ。
何か不幸や、不吉なキザシがあるとケガレを清める。
浜おり(海に入って身体を清める)や、井戸で洗う、雨にあたるなど水で清めるという。
神社での手水(ちょうず)は勿論のこと、通夜(つや)の帰宅時に、塩を身体にかけるのや相撲の土俵で、一番いちばん力士が塩をまくのも清めていたんだ。
日本人の風呂好きは、外国人には有名らしい。
どうやら汚れを落とすや洗うは、再生の意味があるらしい。
まだまだ岡本論は続く。
是非、読んでほしい
ものの見方や考え方が、一変するはず。
沖縄には、形のあるものが何もなかった。
「美浜アメリカンビレッジ」
著者が沖縄を訪れてから61年たった今、世界で最も危険な飛行場と言われている普天間飛行場は、辺野古沿岸部への移設計画にともない、政府が沿岸部に土砂投入を行っている。
2018年12月14日の土砂投入から2年がたった。
悲しみはこれだけでは終わらない。なんと辺野古沿岸部の埋め立てに、遺骨眠る(県全体で2,849柱の遺骨が見つかっていない)激戦地、本島南部の糸満市と八重瀬町の土を使おうと計画しているのだ。
沖縄の軍艦を見て「威嚇と滑稽を共に積んで浮かんでいる、巨大なオモチャ」と言いはなった岡本太郎は、今の沖縄に何を感じ、何を表現するだろうか……。
それでは、さよならサヨナラ。