人間の究極の欲求は、不老不死なのだろうか。
財や名誉はなんとかなるにしても……。
室町時代、東北地方に住む少年アシタカは、タタリ神と化したイノシシ神と戦い、呪いをかけられてしまった。
呪いの断つ術を求め西へと旅立ったアシタカは、エボシ御前が率(ヒキ)いる製鉄所・タタラ場へたどり着くことに。
ところが、エボシ御前は鉄を造るためだと、神々の住む森を破壊していたのだ。
森を守るイノシシ神は、怒り心頭、エボシ御前を狙うが返り討ち。
そして、もののけ姫と呼ばれている少女サンは、森で犬神に育てられ、これまたエボシを狙うものの……。
そんな混乱のなか、アシタカはサンと出会ったのだ。
監督は『崖の上のポニョ』や『となりのトトロ』そして『紅の豚』の宮崎駿。
1万年も続いた縄文時代の日本は、自然の恵みだけで十分な食生活が維持できていた。
自然と人間が共存することにより、快適な暮らしが1万年も続くのである。
ところが、縄文時代の晩期は異常気象が頻発し、十分な食料確保が困難に。
そんな縄文時代の終わり頃、九州北部に中国や朝鮮半島から水稲栽培技術が伝わってきたのだ。
弥生時代に入り農耕が生活の中心になると、貯蔵力が高い米は富として価値が出てきた。
だが稲を生産する水田は、拡張するにつれ水利用や土地を巡っての争いが多発することに。
本格的な水田耕作の普及は、生活を安定させる一方で日本列島に戦いをもたらすことになったのだ。
ちなみに江戸時代の石高性(こくだかせい)という社会システムは、すべての経済価値を米の量で換算していた。
ところで本作は、最初から最後まで争いである。
人間と森に住む動物たち、人間と人間、そして人間と不老不死のシシガミ。
そんな争い中、アシタカは仲裁役。
なんとか共存できないかと。
特にサンは、森を破壊するエボシを憎んでいた。
憎しみの目ぢからは強力である。
されど、アシタカはサンを初めて見た時から感じていたのだ。
「美しい」と。
欲などの雑念がなく、森を守るという一途の想いが目に表れていた。
アシタカは、「くもりなき眼で物事を見定め、決める」という眼力があったのだ。
なぜなら、タタリ神に呪いをかけられなかったら、エミシ一族(いちぞく)の長になるはずだった。
エボシ御前のことも分かっている。
森を破壊していたのは、製鉄所を守るためだけでなく、働く人たちを守るためということを。
一般社会から迫害されたハンセン病の人や人身売買された女性たちを、差別することもなく引き取っていたのだ。
また、タタラ場の職場環境はキツイが、やりがいを持たせていた。
反対にサンは、アシタカに出会ったことにより数多の困難を跳ねのけ成長している。
アシタカの想いを理解できるようになったのだ。
千尋は、湯婆婆に家に帰るための条件を出され、豚に変えられた両親を「この中から両親を選べ。ピタリと当てられたら自由にさせる」と。
「ここには両親はいない」と千尋は、湯婆婆の誘導にはだまされなかった。
千尋は湯屋で働くことにより、色んな困難を乗り越え成長していたのだ。
やはり、最後の争いは、不老不死と言われているシシガミの首をめぐっての争いだった。
ジコ坊はシシガミの首を返すようにとアシタカに言われ、返した言葉が「天地(アマツチ)の間にあるすべてのものを欲するは人の業(ゴウ)というものだ」と言い放ったのだ。
ジコ坊にシシガミの首を持ってくるように命令したのが、なんと明(ミン)の帝である。
ましてや、ジコ坊は任務をまっとうするためにエボシ御前を利用したのだ。
自分の手は汚さずに。
アシタカはジコ坊を説得し、ようやくシシガミの首を受け取り、サンと一緒に手渡しで返すことができた。
寄りそったことにより、アシタカとサンそして他の人たちや自然も不老不死のシシガミに「生きろ」と。
「生きてりゃなんとかなるのさ」
アシタカとサンが生きてる限り自然と人間の共存は続くだろう。
「会いに行くよ、ヤックルに乗って」
成長したサンは、アシタカとアイコンタクトで通じあう仲に。
それでは、さよならサヨナラ。
参考 : 「和の食」全史